よし、話てみ。聞いたるけん。
お~い、たーじぃ~。
おお、ぱみゅ代、共通テストお疲れさんじゃったな。
ほんっと疲れたよ。
じぃは優しいから、出来は聞かずに居てやるからな。
なに言ってんだ。
ちゃんと目標には届いてるから、こうしてしちめんどくさくても、たーじぃの話相手になってやろうとしてんだぞ。
なにぬかす。
共通テストの最中はさすがに話聞いてやれなかったけどさ。
寂しかっただろ?
なにぬかすの二乗じゃ。
まあまあ強がるな強がるな。わかってるわかってる。
ま、それはそうとして、今日は、40年前、たーじぃの好きな高橋幸宏さんが亡くなった日、なんだろ。
というか、亡くなったのを知った日なんだろ。
ああ、そうじゃ。
さっきママとまあばあが、たーじぃが思い出して寂しそうにしてたから、時間あるなら話きいたげてって言われてさ。
きっと、ママとまあばあは、もう耳にタコなんだろうなあ。
仕方ないじゃろう、ぱみゅ代。
話してると永遠に出てくるんじゃから。
そんなに話せるの、きゃりーぱみゅぱみゅ様だけだと思ってたよ。
うむ。
考えると、きゃりーぱみゅぱみゅ様に繋がったのも、元々はYMOが好きだったから、ということなんじゃな。
それに、そのYMOの中でも、最もポップなのが高橋幸宏さんだったのじゃ。
ほー、そーなのか。
そうじゃ。最近は勉強ばっかりして世間知らずなぱみゅ代でも、「RYDEEN」ぐらいは知っとるじゃろう。
たーじぃよりはよっぽど世間知ってるっての。
ライディーンはオレも知ってるわ。馬の蹄の音で始まるやつだろ。
おおっ。えらいぞ、さすがぱみゅ代じゃ。
確か大分前に、たーじぃにライディーンを扱った番組を見せられた気がするな。
で、どうじゃ?
良い曲じゃろう。
聞きやすいよな。言われてみると、きゃりーぱみゅぱみゅ様に繋がる気もしてきたな。
そうなんじゃ。
これは少しずれる話なんじゃが、同じYMOの細野さんが、Perfumeさんの楽曲を頼まれたことがあったそうなんじゃ。
きっと、中田ヤスタカ御大が関わる寸前ぐらいだったと思うんじゃが、その時に細野さんが、Perfumeには自分より幸宏の方が合ってる、と言ったとかいう話がネットに転がっておった。
ほー。そうなのか。
すると、二つぐらい間違ったらという表現は違うな、二つぐらい転がったら、もしかして高橋幸宏さんがきゃりーぱみゅぱみゅ様の楽曲を担当する、ということもあったかもしれないのかな。
まあ、中田ヤスタカ御大が自らスカウトしたんじゃから、その可能性はまあゼロに近いと思うが、それでもそれを考えると楽しいな。
なんせ高橋幸宏さんも細野さんや教授と同じく、楽曲提供においてもなかなか侮れん才能を発揮するからのう。
実際のところ、全く縁がなかったの?
いや、実はそうでもないのじゃ。
ワールド・ハピネス(WORLD HAPPINESS)という、高橋幸宏さんがキュレーターを勤めていたフェスがあるんじゃが、そこに2012年の8月12日に出演しているんじゃよ。
2012年と言えば、ファーストフルアルバム、ばみゅぱみゅレボリューションが発売された年じゃぞ。5月に発売で8月に出演だから、これはさすが、高橋幸宏さんの慧眼といえるじゃろうのう。
ほー。
その時はまだ、たーじぃはきゃりーぱみゅぱみゅ様に目覚めてなかった訳だな。
ううう。
じゃが、実はその2年後、2014年の8月にも同じフェスにきゃりーぱみゅぱみゅ様が出演されておるのじゃ。
しかもじゃぞ、その時は、METAFIVEとして出演された高橋幸宏様ご本人、更には、細野晴臣さん、電気グルーヴさんまで出てて、なぜ行かなかったのか、今に至るまで後悔のしっばなしじゃ。
ほー。
それに2012年の時も、YMO名義でYMOが出演されたんだから、その気になってたら見に行っていたはずじゃ。
もう全く自分の行動力の無さには呆れるばかりじゃいっ。
お、おい、たーじぃ泣くなよ。
おおお。すまん。思い出すとどうしてもな。
大袈裟に泣くんじゃなくて、そんなふうに泣くの、初めて見たよ。こっちも悲しくなるだろ。
なんか涙が自然と溢れてくるんじゃ。
元気だせ元気だせ。
こうやって忘れず話して、そして音楽聞いてってしてるんだから、幸宏さんも喜んでるって。
そうじゃろか。
それに取り返しの付かないことはもういいじゃん。
これからだよ、これから。
そうじゃな。
それで、ライブとかにも行ってたんかい?
おお、そうじゃ。
最初にライブに行ったのは、1982年じゃった。
前年に出た「what me,worry?」というアルバムの後のツアーでな。邦題は「ボク、大丈夫?」といういかにもユキヒロらしいタイトルじゃった。
今Wikiで調べたら1982年7月19日、夏休み寸前じゃな。
この日に神戸でやったライブじゃな。
友人と一緒に行った。
そいえば友人が録音できるちっちゃいウォークマンを持ってて、録音してたら、途中で係員に見つかって没収されたなあ。
それ、完全に違法だな。
たぶん黒幕はたーじぃだろう?
ぎくっっっ。
若気の至りで許してくれ。
たぶん、探したら今でも、カセットテープあるんじゃないかな。
全く反省してねーな。
このツアーでの最終公演、東京では坂本龍一さん、教授がゲストに来てて、ドラムを叩いたそうで、めちゃくちゃ羨ましかったのを覚えているな。
そりゃ見たかっただろうなあ。
これもFMでライブがあって、カセットテープに録ってて大事に聞いていたなあ。これは間違いなく今もとってるが、40年後、幸宏が亡くなる年に完全版としてリリースされたんじゃ。しくしく。
よしよし。元気だせ。
当時は確か高1で、こづかいもそんなになくて、京都と大阪には行けなかった。というか行けなかったんじゃが、今から思うと実に残念じゃ。
さっきも言ったけど、どうしようもないことは・・。
ああ、そうじゃったな。もう言わんもう言わん。
それより、ライブはどうだったんだ?
もしかして、初めて行くロック系のライブじゃなかったのか?
昔すぎて忘れてしまったか?
そうじゃな。もしかしたらそうかもしれん。
たぶんそれまで行ったライブって、お嫁さん候補だった、山口百恵さんと伊藤つかささんぐらいだったんじゃないかな。
お嫁さん候補って。
たーじぃが長生きするのも分かるなあ。
そうじゃろう。その分、振られた時の悲しさったらなかったぞ。
ああ、さようですか。
ライブではな、当時、ちょうどヒット曲を出す寸前だったと思うんじゃが、一風堂のギター、土屋昌巳さんも来ててな、もうめちゃくちゃかっこよかったぞ。
ドラムは、高橋ユキヒロさんの一番弟子と言い張っておったスティーヴ・ジャンセンさんという、イギリスのJAPANというバンドのドラマー。
そして、立花ハジメさんがサックス。ギターもひいておったな。
最後に、なんといってもベースに細野さん。
この時、雑誌雑誌のインタビューで、高橋ユキヒロさんのライブのバックはどうですか? って聞かれて、いや、YMOのバックをずっとやってましたから、って答えてて大爆笑したよ。
ん?
確か細野さんって、YMOのリーダーだよな。
あっ、そうか、リーダーなのにバックやってるってところか。
そういうちょっと自虐的なギャグもなんか、当時YMOらしかったなあ。
自虐も行き過ぎるとあかんけどな。
わかっちょるわかっちょる。
自虐とはちょっと違うんじゃが、当時英語のテストにwhat me,worry? って書いたら、英語の先生が、what me,it's worry? って添削してくれたなあ。
どうせその英語の先生もお嫁さん候補だったんだろ。
ぱみゅ代は実にじぃのことを良く分かっちょるなあ。
とても可愛くと優しくてキビシイ先生じゃった。
だがな、ぱみゅ代。
当時じぃには、伊藤つかささんというフィアンセが居たんで、泣く泣く諦めたんじゃ。
はいはい。
それで、幸宏さんはずっと聞き続けたんだ。
うむ。それからずっと聞いてて、特に高校の時はまさに神じゃったな。
YMOが解散してからはもっと夢中になって聞いておった。
しかしまあ、その後、ジャズと出会ったりして音楽の幅が一気にひろがってな。
たーじぃの音楽の原点ともいえるんだな。
まさにその通り。
また、コムズカシイ話になるが、ヒップホップの祖の一人と言われる、アフリカンバンバータさんは、クラフトワーク、YMOの曲も採り上げているから、その影響は脈々と現代まで続いているんじゃ。
たーじぃが黒人音楽に向ったのも、そういうところもあったのかな。
うむ。
やはり嗅覚が鋭いからなう。
がっはっはっっ。
いや、元気でてきて良かったよ。
うむ。
ここから、さらにジャズ、R&B、そしてラテン音楽と講義は続けたいところじゃが、ぱみゅ代は二次試験に向けての勉強があるから、この辺にしていてやる。
ほ~。
気も使えるんだなあ。
当たり前じゃ。
ほどほどにしないとおばあちゃんとぱみゅ子に叱られるわい。
ふふ。
でも、ぱみゅ代。
無事に合格した暁には、一週間ほどみっちりと音楽講義をしてやるから、それを励みに受験勉強もがんばるのじゃぞ。
・・・・・・・・・・・。
お、おう。